01.【唯我 Independence】

 

ただ "私" である。

それがすべての答え。

 

私には必要とするものは何一つなかったのだ。

 

満たす必要はなかったのだ。

 

達成する必要も、改善する必要もない。

物も、環境も、他人も、状況も、出来事も、

自分の体も、知識や技術も、

何より大切にしてきたものも、

それは私という存在そのものではない。

 

自分を満たすため、守るための

あらゆるすべてから手を放したとき

"私"に出会う。

 

私は源。

私はすべて。

 

 

2010.1.1 大町(及び穂高神社)にて

 


私が私であるということ。それがあらゆるすべての答え。

 

レイエッセンスの最初の1本となった「唯我」が顕れたときのことでした。

この世のもの、あの世のもの、ありとあらゆるすべてから、ただプラグを抜く、というような体験。

これが私、と思っていた自我は解けてどこまでも透明になっていきます。すべてが失われてしまう!と様々な恐れがそれを引きとめようとしても、プラグを抜いた私には指一本触れることはない。なにがあってもそのままにただ安心してしまう。どこまでも手を離し、どこまでもいとわずに、私のすべてはもうなくなっていく。どこまでも無くなっていく。

そしてついに何もなくなったとき。限りなどない至福とともに、それが私でした。

でもそれはすでに、今までもずっとそうであった、そうでなくなることなどあり得ない、これからもずっとそうである永遠の私でした。

それは自分が求めていたすべてのことに対する答えでした。求めているとも気づかない旅、その旅はついに終わったのだと。すべての苦しみはもう終わりなんだと。

 

これまでも様々な側面から私と出会うことを期せずして繰り返してきたこともわかりました。でも、このときは少しだけ違いました。それまではただただ至福の中に広がり続けるだけだったのが、このときはじめて「これを表現するには?」と問いを持ったのです。

この問いはそのまま答えとなります。

「これこそがまさにエッセンスなのだ」と。問いは答えなのです。自分のこれまでの人生の全体験がことごとくその答えを支えました。一つの余分なことなくすべてがそれを指し示したのは、これをエッセンスとしてこの世につなげるのだということです。水はその表現媒体、というより出入口となってこの源とこの世界をつなぐ。

そして、どうやってそれをするのか。

今"そうである"だけでよい。作るのではない。ただ"そうである"だけでよかったのです。

 

こうして深い雪が降り積もる日に、私が私であることをほんとうにゆるして生まれた1本のボトル。

これが後にレイエッセンスと名付けられることになりましたが、名前はずっと後にやってきて、でも名前もすでに決まっていたこともわかりました。望むものは、それを望んでいると気づく前にすでに与えられていたのです。